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2014年4月28日 (月)

上野恩賜公園

仕事の帰りにぶらりと立ち寄りました。

Dsc04536 上野恩賜公園
は、東京都台東区にある公園。通称上野公園。「上野の森」とも呼ばれ、武蔵野台地末端の舌状台地「上野台」に公園が位置することから、「上野の山」とも呼ばれる。総面積約53万m²。東京都建設局の管轄。公園内には博物館、動物園等、多くの文化施設が存在する。「上野公園」は台東区の町名でもある。東京国立博物館、国立西洋美術館、国立科学博物館、恩賜上野動物園などの文化施設が集中して立地している。また彫刻家高村光雲作の西郷隆盛像があることでも知られる。高台となっている忍ヶ岡は、近世からの桜の名所としても有名であり、日本さくら名所100選に選定されている。

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寛永寺
東京都台東区上野桜木一丁目にある天台宗関東総本山の寺院。山号は東叡山(とうえいざん)。東叡山寛永寺円頓院と号する。開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来である。徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇ったが、慶応4年(1886年)の上野戦争で主要伽藍を焼失した。彰義隊討伐の命が発せられた時、彰義隊は東照宮付近に本営を設置し、山王台(西郷隆盛銅像付近)から応射した。西郷が指揮していた黒門口からの攻撃が防備を破ると彰義隊は寛永寺本堂へ退却するが、彰義隊はほぼ全滅し、彰義隊の残党が根岸方面に敗走した

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何故ここに西郷さんがいるのか?が分かりました。
西郷隆盛さんは東征軍の職務上の権限を持っていたのです。

江戸開城以降、関東各地で旧幕府陸軍兵士等の盗賊が各地で幕府復興を名目に放火や強盗を起こし、江戸では彰義隊の新政府への敵対姿勢が改まらず、彰義隊隊士の手で新政府軍兵士への集団暴行殺害が繰り返されていた。京都の明治新政府は関東の騒乱の原因の一つを彰義隊の存在と考えた。新政府は彰義隊に江戸警備の任務を与え懐柔しようとした勝海舟ら旧幕府首脳、また旧幕府首脳に江戸治安を委任していた東征軍の西郷隆盛から職務上の権限を取り上げ彰義隊を討伐する方針を決定し、京都から西郷隆盛に代わる統率者として大村益次郎が着任した。

新政府側は、1868年5月1日に彰義隊の江戸市中取締の任を解くことを通告、新政府自身が彰義隊の武装解除に当たる旨を布告した。これにより彰義隊との衝突事件が上野近辺で頻発。軍務局判事(兼江戸府判事)として江戸に着任していた大村益次郎の指揮で武力討伐が決定、同14日に彰義隊討伐の布告が出される。

新政府軍は長州藩の大村益次郎が指揮した。大村は海江田信義ら慎重派を制して武力殲滅を主張し、上野を封鎖するため各所に兵を配備してさらに彰義隊の退路を限定する為に神田川や隅田川、中山道や日光街道などの交通を分断した。大村は三方に兵を配備し、根岸方面に敵の退路を残して逃走予定路とした。作戦会議では、西郷隆盛は大村の意見を採用したが、薩摩軍の配置を見て「皆殺しになさる気ですか」と問うと、大村は「そうです」とにべもなく答えたという。

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彰義隊 1868年に江戸幕府の征夷大将軍であった徳川慶喜の警護などを目的として渋沢成一郎や天野八郎らによって結成された部隊。幕府より江戸市中取締の任を受け江戸の治安維持を行ったが、上野戦争で明治新政府軍に敗れ解散した。鳥羽・伏見の戦いの後、徳川慶喜は江戸城へと移っていたが、1868年2月11日に新政府に対する恭順の意を表し、翌12日上野寛永寺に蟄居した。これに不満をもった有志が集まり結集された組織。町人や博徒や侠客も参加し、隊が千名を越える規模になった。1868年5月15日(7月4日)、新政府軍側から宣戦布告がされ、午後5時には戦闘は終結、彰義隊はほぼ全滅した。戊辰戦争の前線は関東の北の要塞であった宇都宮や、旧幕府勢力が温存されていた北陸、東北へ移った。
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Dsc04287 自作の木琴を自転車に載せ世界各国を演奏旅行している立松正さん、国立の自宅から2時間かけて演奏しに来ているそうです。演奏時間は、午後4時まででしたので、残念ながら聴くことはできませんでした。東京都の石原知事より、○○芸術賞を頂いているようです。賞の名前を聞きましたが、忘れました。演奏許可を一ヶ月前に取って、ライブを公開しています。

下の写真は、小学校の遠足で行ったことのある上野動物園です。この時は、閉園時間となっていました。

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上野東照宮ぼたん苑には、1500坪の敷地に約250品種、3200株が植栽されています。今年で32回目の開催です。1980(昭和55)年に日中友好を記念して開園した同苑には50種200本余りの中国のボタンが植えられており、珍種として知られる「豆緑(とうりょく)」や「崑崙獅子(こんろんじし)」なども見ることができる。「パンダを見た後に当苑でボタンを楽しむ方も多い。

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偶然お会いした女性たち。おしとやかで、花に囲まれていたので、お願いして撮らせて頂きました。

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Dsc04389_2 上野東照宮 東京都台東区上野恩賜公園内にある神社。旧社格は府社。正式名称は東照宮であるが、他の東照宮との区別のために鎮座地名をつけて上野東照宮と呼ばれる。徳川家康(東照大権現)・徳川吉宗・徳川慶喜を祀る。寛永4年(1627年)、藤堂高虎が上野の高虎の敷地内に創建した。社伝によれば、元和2年(1616年)、危篤の家康から自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしいと高虎と天海に遺言されたという。現在の社殿は慶安4年(1651年)に家康の孫である徳川家光が改築したものである。社殿は平成21年(2009年)1月から平成25年(2013年)まで修復工事が行われ、平成26年(2014年)から公開されている。600円の拝観料で透塀内を見学できる。

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徳川家康公(東照大権現)の遺言により、1627年(寛永4年)、藤堂高虎と天海増正によって、東叡山寛永寺境内に、家康公をお祀りす神社として建立され、1646年(正保3年)に正式に東照宮の宮号を授けられた。1651年(慶安4年)に三代将軍・徳川家光が造営替えしたものが、現存する社殿である。

上野精養軒 東京都台東区上野恩賜公園内にある老舗西洋料理店。株式会社精養軒によって運営されている。本店のある上野公園内の博物館などに系列店を出店している。1872年(明治5年)  三条実美や岩倉具視の援助により、東京府築地に「西洋館ホテル」創業。1873年(明治6年)  西洋館ホテル、「精養軒ホテル」と改称。(築地精養軒)1876年(明治9年) 上野精養軒開業

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不忍池 弁天島に建つ石碑によれば、「不忍池」の名は、かつて上野台地と本郷台地の間の地名が忍ヶ丘(しのぶがおか)と呼ばれていたことに由来するとのことである。ただし、異説もあり、周囲に笹が多く茂っていたことから篠輪津(しのわづ)が転じて不忍になったという説(『新編武蔵風土記稿』)や、ここで男女が忍んで逢っていたからという説(『望海毎談』)もある。15世紀頃には既に「不忍池」という名で呼ばれていた。

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これで、家に帰ります。 第一印象として、不忍池が以外に小さかったことです。

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