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2014年5月の12件の投稿

2014年5月26日 (月)

台湾 朝の龍山寺と北投温泉で足湯

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龍山寺 

龍山寺は台湾の寺院。台湾各地に存在するが、本項では台北市万華区に位置する。正式には艋舺龍山寺(もうこうりゅうざんじ、マンカーロンシャンスー)と称するが、地元でも単に龍山寺と呼ばれることが多い。1738年、福建省泉州から渡来した人々により、福建普江安海龍山寺の分霊として創建された。台北市内で最古の寺院であり、国家古蹟であると共に、台北101、故宮博物院、中正紀念堂と並ぶ台北市の「四大外国人観光地」とされる。艋舺清水巌・大龍峒保安宮と並ぶ「台北の三大廟門」といわれる。

本尊は観世音菩薩であるが、現在では道教や儒教など様々な宗教と習合しており、孔子や関帝(関羽、三国志で知られる)、媽祖など、祀られている神は大小合わせて100以上に及ぶ。人々は様々な神が祀られた7つの香炉を順に廻りながら、それぞれの神に参拝する。
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北投温泉 台北駅からMRT淡水線に乗って約30分。新北投駅前に広がる温泉街が北投温泉です。
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Dsc08191台北市内からとにかく近い!こんな近くに風情あふれる温泉街があるとは驚きです。
北投温泉は、世界に3か所しかない珍しいラジウム温泉の温泉地!3つのうちの1つは、日本の玉川温泉、2つ目がチリです。ラジウムが石化した「北投石」は、ここ北投地区で初めて発見されたことからその名が付けられました。 もうもうと湯気をたたえる地獄谷からは、硫黄のにおいがプンプンします。新北投駅を出ると、1本の川を挟んだ北投温泉街のメイン通り、温泉歩道があります。しばらく歩いていくと、川からわずかに湯気が!温泉歩道の最終地点あたりは『地熱谷』と呼ばれ、独特の硫黄のにおいが立ち込めています。歩道から川のほうへ降りて行くと、足湯を楽しむことも。石の上に座りって温泉に足をつけていると、だんだん体がポカポカしてきます。

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2014年5月25日 (日)

旧友 陳さん夫妻に会いました。

旧友 陳さん夫妻が、私たちを夕食に誘ってくれました。「不加味素」というレストランで台湾料理をいただきました。初めていただく豆花も、珍しい上に、とても美味しかったです。右下 陳さん
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耶和华见证人的会众在台湾

我在台湾遇到了证人。我女儿的婿、第一次给了一个讲座。因此、他的母亲,朋友等从日本来到台湾。讲座的标题是 ○○。他会做在紧张,表现了良好。
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她(右下)赞赏他的劳动,并请他吃饭。

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2014年5月24日 (土)

台湾に来ました

5年ぶりに台湾に来ました。

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中正紀念堂全景 中正紀念堂は中華民国台北市中正区に位置する総統蒋介石の顕彰施設。台湾の三大観光名所の1つであり、中国の伝統的な宮殿陵墓式が採用されている。
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台湾の温泉の歴史は、1894年に初めて北投で発見され、台湾が日本に割譲された後、日本の温泉文化が台湾に影響を及ぼしました。1896年には、北投に台湾初の温泉旅館「天狗庵」を開き、北投温泉郷の時代が始まっただけでなく、台湾温泉文化の幕開けともなりました。日本統治時代に最も名が知れていた四大温泉は、北投、陽明山、関子嶺と四重渓でした。現在は、施設の再開発などにより、多種多様な新しいスタイル温泉施設が各地に登場しています。賑やかな都市部の喧騒から少し奥に入るだけで、日本と似て非なる台湾ならではの温泉浴を満喫してみるのもお勧めです。

鸟来温泉

南勢渓と桶後渓にかこまれた烏来温泉は台北の郊外にあり、炭酸水素化ナトリウム泉に属する泉質は無色無臭で良質です。烏来には先住民タイヤルの集落があり、タイヤルの料理が味わえるほか、伝統工芸の購入にも便利。また、春にはピンクの桜の花が咲き誇り、台湾北部の代表的な桜の名所となっています。新店駅からバスでおよそ、1時間。

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タイヤルTayal)  中国語:泰雅族。別名アタヤル族)は、台湾原住民の中でも2番目に多い8万5000人の人口規模を持つ民族集団。居住地域は台湾の北部から中部にかけての脊梁山脈地域である。

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敵の首を狩った者のみが刺青を入れることを許される。刺青が無いと社会的に無視され、結婚すらできない。さらに狩った首の数が多ければ、特別な衣服や装飾をつける権利を得る。

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Dsc07490Dsc07494串にさし、こんがりと甘みをつけたソーセージを生にんにくをかじりながら、食べるのですが、これが、にんにくの辛さと甘辛さが口の中で、溶けなんとも言えない位、美味しい

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土産店と「昇滝珈琲館」を営む現地の人と結婚した吾妻さんと 吾妻さん夫婦(右)

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ドクターフィッシュ。基本足湯みたいなところに魚が入って、そこに足をつけて、角質を食べてくれます。

足湯は、30分で150台湾ドルでした。魚が寄ってきて角質を食べてくれますが、くすぐったいような、チクチクと痛いような不思議な感覚です。

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2014年5月18日 (日)

八丈島を一周

Photo_3 八丈島  伊豆諸島。行政区分は東京都八丈町。隣の八丈小島 と区別するため、八丈本島もしくは八丈大島と呼ばれることもある。東京の南方海上287キロメートル、御蔵島の南南東方約75キロメートルにあり、東山(別名:三原山・標高701メートル)と西山(別名:八丈富士・標高854メートル)のふたつの火山が接合した北西-南東14キロメートル、北東-南西7.5キロメートルのひょうたん型をした島。面積は山手線の内側とほぼ同じ。人口は、約8,000人。太平洋戦争の際には、連合軍の南方からの侵攻に備えるべく、小笠原諸島が陥落した際の次なる防衛拠点とされていた。また東日本では唯一の回天基地も造られた。結局八丈島での戦闘は起こらなかったものの、「防衛道路」や「鉄壁山」などにその跡が残っている。

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平安時代に伊豆大島へ流罪となった源為朝が渡来し、八丈小島で自害した伝説が残っている.

流刑 江戸時代には追放よりも重い刑と規定されて「遠島」と称されており、江戸幕府では東日本天領の流刑者を主に八丈島等の伊豆七島に流した。八丈島の公式な流人第一号は、慶長5年関ヶ原の戦いに西軍石田三成方に属した宇喜多秀家である。秀家の子孫は、秀家の正室であった豪姫の実家である加賀藩前田氏の援助を受けながら数家に分かれて存続し、明治維新後の1869年に至ってようやく赦免された。赦免と同時に直系の者は島を離れて板橋宿の加賀藩下屋敷跡に土地を与えられて移住したが、数年後に島へ戻った子孫の家系が現在も秀家の墓を守っている。

最後の流人(最後まで流刑状態にあった人物)は北方探検で知られる旗本近藤重蔵の嫡男近藤富蔵である。1826年(文政9年)に殺人を犯して八丈島に遠島となり50年以上もの間、島で流人としての日々を送った。1880年(明治13年)にようやく明治政府により赦免。彼が流人生活の間に記した『八丈実記』は島の研究の資料として高く評価されている。流罪にされる場合、暴力犯より政治犯が往々にして遠くに飛ばされる。政治犯は多くの場合文化人であり、特に古い時代は貴族等位の高い者が多かった。したがって、その様な人物が多数流される地には豊かな文化が伝えられ、栄える例が多い。八丈島にも言える。

Photo_3 八丈富士 標高854メートル 富士山のような美しい円錐形をした伊豆諸島最高峰の山。標高500m付近を走る鉢巻き道路から登り、晴れていれば山頂に近づくほどに広がる眺望は素晴らしく、お鉢廻りの登山道は溶岩に風衝地特有の低木林が広がっています。また、火口のダイナミックな火山地形は圧巻です。標高854.3mの八丈富士は円錐形の複式火山
で、伊豆諸島最高峰。形成されて約1万年の若い山である。登山口から頂上まで、ゆっくり登って1時間15分。

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ふれあい牧場 
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ふれあい牧場は、緩やかな山の傾斜地に放牧がされています。また、展望台からは島の中心部を一望できます。夜景と満天の星空はすばらしい輝きを放ちます。また、頂上を含め中腹の鉢巻道路から年に数えるほど空気の澄んだ日(冬季)には八丈小島の右奥方向に友島の島々はもちろんのこと駿河の富士も望めます。

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登山道は最初、1280段続く石の階段をひたすら登る。踏み面が等間隔ではないからペース乱しちゃうとすぐ疲れそう。

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八丈富士の火口内にある浅間神社 木立のルートを15分程度歩くと木々に覆われた浅間神社が現れた。雨の湿気で緑が濃い。小さな祠がある。

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みはらしの湯  大露天風呂と内風呂である展望風呂、展望休憩室をメインにレイアウトしており太平洋の大海原と小岩戸ケ鼻、八丈島灯台を見渡せるまさに絶景とも言える場所に建てられています。入浴料 500円。

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我々が投宿したホテル リード アズーロ

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明日葉の栽培をする農家 畑に残されたキジの卵を孵化させて飼育してる。

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玉石垣  石は、一個の石の周りを六個の石が囲むように敷かれている。水はけが良く、強固な塀になっている。 波に削られ、角のとれた丸い石を積み上げた石垣。流人が1日の糧を得るために海岸から運んだともいわれている。近くにはふるさと村もあり、かやぶき屋根の古民家を見学できる。

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ふるさと村  島の古い住居を移築したもの。風水害からくらしを守る知恵にあふれています。

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ふるさと村
玉石垣と椰子に囲まれた敷地内に、母屋、馬小屋、高倉、閑所(トイレ)が移築保存されています。休日や観光来島者のある時期には、母屋の内部が開放され、伝承の語りやお茶のもてなしがあります。

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樫立踊り 徳川幕府献上絹黄八丈御用船の船預かり船奉行であった服部家の屋敷跡服部屋敷では、東京都指定無形民俗文化財である樫立踊りを公開しています。流人や漂流者たちが日本の各地から持ち寄った踊りが伝えられたものです。都 の無形文化財に指定されています。http://youtu.be/pT3x4GBY0XA 前庭には樹齢700年を超える大蘇鉄と入口には近藤富蔵設計、流人が築いた玉石垣があり、往年の服部家を偲ばせます。

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歴史民俗資料館
先史時代の石器、島民の生活の変遷、流人の苦難、古文書、伝承にまつわる資料など約1,500点を展示。

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Dsc06424南原千畳敷   八丈富士が噴火した際、その熔岩が流れてきたところで、そのままべったりと海に張り出してすばらしい景色、景観を呈している。溶岩はパホイホイと言われるもので、縄目状になっているところがある。また、玄武岩の特徴である柱状節理を見ることができる。右手海上に八丈小島が浮び、磯釣りの好適所でもある。


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裏見ヶ滝温泉
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中之郷尾越温泉スタンドから道路を隔て、滝を見下ろすロケーションに造られた裏見ケ滝温泉は男女混浴の露天風呂です。(水着での入浴となります)


管理運営は中之郷自治会が行っており、地区住民はもとより島を訪れるダイバーなどに高い人気です。(ここでは石鹸・シャンプー等は使えません)

源泉名:中之郷尾越温泉、泉 温:53.1℃ PH値:6.3 湧出量:500ℓ/分(動力揚湯) 泉 質:ナトリウム-塩化物温泉 混浴温泉(水着着用)


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Dsc06632_2大阪トンネル 日露戦争(役)戦勝記念事業として、明治38年に起工、同40年唆工。長さ167メートルの素掘のままであったが、昭和37年に横間道路の改修に着工、以来6年の歳月をかけ、昭和43年7月5日完成、現在の近代的なトンネルとなった。道路は総延長1667.5メートル、巾6.5メートル。トンネルは高さ6.5メートル、長さ151.2メートル、巾7.3メートル。このトンネルを境として三根、大賀郷を坂下、樫立、中之郷、末吉着を坂上と呼んでいる。ここからの展望は横間浦とそれに面している耕地と切替畑の樹木が確認できる。
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見晴らしの湯に行く途中に名古の展望台があります。この辺りは末吉地区、空港から車で約30分ほど走ります。高台にあるこの展望台からの眺めは最高!!Dsc06705














右手に断崖絶壁があり左手には太平洋。眼下には洞輪沢港が見えます。洞輪沢港には、洞輪沢温泉があります。

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八丈島一周の都道の内、末吉と三根の間を登龍道路と呼び、その最高部が登龍峠です。 眼下に底土港、神湊港、空港や坂下市街地が見え、その先の八丈富士や八丈小島が望めます。 晴天には遠く三宅島や御蔵島が望める八丈島随一の観光道路。Dsc06744_2

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2泊4日(含む 船中泊)の旅が終わりました。八丈島の皆さん、有難うございました。

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さようなら またお会いする日まで。

2014年5月17日 (土)

八丈島の旅であった人々

Dsc05774 5月17日 午後10時20分 竹島桟橋を八丈島に向けて出航しました。その間、数々の旅人、現地の人にお会いしました。下中央は、釣り歴 40年、釣り同好会を束ねる会長

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Dsc05871 三宅島で多くの釣人が下船。

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三宅島から御蔵島に向けて出航。
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18日 午前9時20分 八丈島 着

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下船

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ホテル リード アズーロ 着 フロントの秀島さん(左) 浅野さん

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ツーリング自転車について教えてくれた佐野さん

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八丈富士 頂上にて 勤続20年の休暇を利用して登った前田さん

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八丈島病院の看護婦 藤本さん(左) 後藤さん

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焼酎メーカーの八丈島興発の専務 家族

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ホテル リード アズーロ アネックス に投宿された山崎さん(下)

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ホテル リード アズーロの浅野さん

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ふるさと村のおばさん みかんをくれて有難う御座いました。

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明日葉農家の高橋さん 明日葉畑に取り残されたキジの卵を孵化させてキジを5羽、飼育していました。

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八丈島 三根地区で郷土料理店「梁山泊」を経営する山田さん(左から2人目)

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居酒屋百名山に挑戰し、98軒目を達成した加藤さん(左)

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旅の備品ならなんでも知ってる川部さん(左)  自転車で旅する堀井さん(右)

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三宅島で郷土料理店、ガイドを営む菊池夫妻

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皆さん、いろいろと教えてくださって有難う御座いました。再会するのを楽しみにしています。さようなら。

2014年5月10日 (土)

獨協大学で韓国語を受講

Img_1287 獨協大学で韓国語を受講する生徒になりました。今日が登校日初日です。二十数年前に仕事を通じて覚えた韓国語を再学習するつもりで受講しています。それ以来の韓国語との出会いです。人生の中で、きちんとした韓国語の授業を受けたことがありません。どのようなものかと思っていました。沈民挂講師が、韓国人の先生で、授業も日本語を織り交ぜて行うので、大変わかり易く、これまで習ってきたものを整理することが出来ました。大学で授業を受けるのは、40年ぶりですが、新鮮な気持ちです。

獨協大学 1964年に大学が設立された際は外国語学部(ドイツ語学科・英語学科)と経済学部経済学科の2学部3学科体制だった。2年後の1966年には経済学部に経営学科を増設、翌1967年には法学部(法律学科)とフランス語学科を増設した。

「語学の獨協」を謳い、外国語教育を中心に据えて学科を増設してきたが、2004年には法科大学院を新設した。かつて明治時代に九大法律学校と呼ばれていた経緯をふまえて計画されたものであった。2012年現在、1つのキャンパスに4学部10学科、4研究科を設置している。

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  沈民挂講師 在日13年 二人のお子さんは日本語の方が得意だそうです。
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2014年5月 9日 (金)

五月大歌舞伎

午後4時半開演の五月大歌舞伎に行ってきました。初めての鑑賞でしたが、インターホン付きラジオ説明の助けもあり、楽しませてくれました。1 矢の根、2 幡随院長兵衛、3 春興鏡獅子 の3部作でした。幡随院長兵衛は、海老蔵です。

歌舞伎十八番のなかで上演回数が群を抜いて多いのは『助六』、次いで『勧進帳』で、これに『暫』が続く。この三番はいずれも七代目團十郎と九代目團十郎の時代に書かれたり現行の型が整った、当時における事実上の新作といえる演目である。

このほかにもしばしば上演されるのが『矢の根』と『外郎売』、そして『毛抜』と『鳴神』である。前の二番は『助六』と同じ「曾我物」の演目、後の二番は『雷神不動北山櫻』という通し狂言の三幕目と四幕目を独立させたもので、登場人物に馴染みやすいことが度々再演される理由にあげられる。また『景清』も現在に伝わって時折上演される。

矢の根 正月の曾我の里で、大きな砥石<といし>で矢の根を磨いていた曾我五郎の初夢に、兄十郎の生霊<いきりょう>が現れ、いま敵の館に捕らえられていると告げて助けを求める。驚いた五郎は四方の悪魔払いをした後、来合わせた裸馬に乗り、大根を鞭<むち>にして駆け出す。

幡随院長兵衛:江戸時代前期の町人。町奴の頭領で、日本の侠客元祖ともいわれる。元和8年(1622年) - 明暦3年7月18日(1657年8月27日 

父の死後、幡随院(京都の知恩院の末寺)の住職・向導を頼って江戸に来て、浅草花川戸で口入れ屋を営んでいたとされる。旗本奴と男伊達を競いあう町奴の頭領として名を売るが、明暦3年7月18日(1657年8月27日)、若い者の揉め事の手打ちを口実に、旗本奴の頭領・水野十郎左衛門(水野成之)に呼び出され殺害された。芝居『極付幡随長兵衛』の筋書きでは、長兵衛はこれが罠であることを勘づいていたが、引きとめる周囲の者たちを「怖がって逃げたとあっちゃあ名折れになる、人は一代、名は末代」の啖呵を切って振り切り、殺されるのを承知で一人で水野の屋敷に乗り込む。果たして酒宴でわざと衣服を汚されて入浴を勧められ、湯殿で裸でいるところを水野に襲われ殺されたとしている。

春興鏡獅子 人気演目として知られており、当時の歌舞伎座の中幕として出された長唄の所作事である。作詞は福地桜痴、作曲は三代目杵屋正次郎、振付けは二代目藤間勘右衛門と九代目市川團十郎。團十郎は『枕獅子』という長唄の所作事を娘たちが稽古するのを見て、これは遊女がのちに獅子の所作となるものであり、歌詞も色っぽいのを福地桜痴に頼んで改めたものである。

その内容は江戸城大奥の正月七日の鏡開きの日、そこへ奥女中たちがお小姓の弥生を引っ張り出し、弥生に踊るよう勧める。弥生は最初拒むもしまいには致し方なく、踊りを見せる。ところが踊るうちに、その場にあった獅子頭を手にすると獅子頭には魂が宿っていて、弥生の体を無理やり引きずりながらどこかへ行ってしまう。やがて獅子の精が現われ、胡蝶とともに牡丹の花に遊び狂うというものである。獅子の姿は白のカシラに法被半切という本行(能)の『石橋』に倣った扮装となっている。

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歌舞伎十八番は、天保年間に七代目市川團十郎(当時五代目市川海老蔵)が市川宗家のお家芸として選定した18番の歌舞伎演目。当初は歌舞妓狂言組十八番(かぶき きょうげん くみ じゅうはちばん)といい、それを略して歌舞伎十八番といったが、後代になると略称の方がより広く一般に普及した

富司純子さんがいたので、ワンショットしました。画像が小さかったので、拡大しました。
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2014年5月 6日 (火)

娘の軽自動車が変わりました。

最近、やっていたことに気がついた。車のグレードアップだ。台湾に住んでいる娘が家に預けて行った軽自動車。以前は、レクサスに乗っていた自分にとっては、好きでない車であった。普段使うようになってから、軽もレクサスも同じで、日常ではなんら変わらないということを認識した。レクサスは見栄の固まり。以前レクサスに乗っていたことがあほ臭く感じた。この軽に、カーナビ、カーステ(Ipodも使える)、シートカバー、ハンドルカバー、ホイール交換等に、二十数万円かけて改良したら、俄然良くなった。ドライブが楽しい。

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今度は、ETCをつけようかと思っている。

2014年5月 3日 (土)

隣町 春日部大凧祭り

江戸川河川敷で、毎年5月の3日と5日に開催されます。この時に揚げる凧は、和紙と竹で3カ月もかけて大凧文化保存会の会員によって作られます。まず大凧を前に、その年に初節句を迎える子どもたちの健康と幸福な成長を願う儀式が行われ、その後、上若と下若それぞれの大凧をあげます。
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大凧を前に、その年に初節句を迎える子どもたちの健康と幸福な成長を願う儀式。凧の大きさ 高さ 16メートル X 横 11メートル 重さ800キログラム。

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10万人以上の観光客が訪れる春日部市を代表する観光行事です。江戸時代後期、出羽の国の僧、浄信が各地巡礼の折、養蚕の豊作占いとして凧あげをこの地に伝えたとさrています。それがいつの日か、端午節句に男子出生のお祝いとして凧揚げを行うようになった。その後、各戸であげられていた凧が徐々に大きくなり、明治中期には現在の大きさになった。




2014年5月 2日 (金)

信玄菩提寺 恵林寺&周辺探訪

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笹一酒造(大月)

Dsc04622 1919年(大正8年)11月3日に田辺酒造の支配人であった天野久によって創業された。天野は従兄とともに笹子酒造の醸造権と醸造場を買収して独立し山梨酒造を創業し、戦後山梨酒造は解散し笹一酒造が創業された。1951年(昭和26年)に株式会社化し現在に至る。日本酒をはじめ、焼酎やワイン、果酒も製造している。関東地方一円に出荷しているほか、本社のある笹子駅前の国道20号沿いに直売所および土産物店がある。俗に言う甲州戦争(天野久を中心とする天野一族と田邊圀男を中心とする田辺一族の地方政界の争い)が激しかった時代は、双方とも蔵を持っていたため天野派、田辺派の宴席に出す際には大変気をつかったという話がある。

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放光寺 
山梨県甲州市塩山藤木にある寺院。武田晴信(信玄)はが弘治元年(1555年)12月に実施した藤木郷への棟別改めにおいて、諸役免除の庇護を受けている。永禄11年(1568年)3月、越後侵攻を行った際には放光寺のほか慈眼寺(笛吹市一宮町末木)、法善寺(南アルプス市加賀美)はじめ11か寺に戦勝祈願を行わせている。
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ハーブ庭園旅日記
 一年中いつ訪れても、色とりどりの花やハーブたちが出迎えてくれます!
中央道・勝沼ICより甲府方面へ15分という好アクセスにあって、10,000坪という広大な敷地を誇る「ハーブ庭園旅日記」は、約200種類ものハーブたちが咲き誇る美しい大庭園。春はチューリップ、夏はひまわり畑、秋はコスモス畑、冬は大温室でさまざまなお花やハーブ、世界中のめずらしい果実などをわんこと一緒に観賞できます
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ローズゼラニウム(ハーブ)は、肌の弱い人に適していると言う。指先のヒビ割れ、に効果があるといわれている。試したところ、肌がスベスベになり確かに即効的に効いた。私の場合は、手先がしょっちゅう荒れていて、日常的にニベア、薬局で購入したクリームを塗っていたので、大変関心があった。瓶詰200ml入りで1200円だったので、2本とクリーム1個を求めた。庭園内のハーブを利用して「ナチュラル化粧品」各種製品を販売している。製品ショールームで、商品の説明があり。直売もしている。

ゼラニウム

ゼラニウムは、ハーブ系の香りの中に、ローズに似たフローラルな香り。ローズに似た香りもつことで、「ローズぜラニウム」の別名をもっているゼラニウム。ヨーロッパでは、ゼラニウムには悪霊を追い払う力があると信じられており、家の周りにゼラニウムを植える習慣がありありました。今でも、窓辺に赤いゼラニウムを飾る習慣が残っています。
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庭園内に、露天の足湯温泉がある。

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信玄館
  昼食 甲州信玄ブランド三大肉御膳
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宝石の森
 大きな白大理石の門柱とライオンートがお出迎えしてくれます。 ゲートを通り過ぎるとローズクォーツやトパーズ、 アメジストで作られた宝石の滝が見えてきます。 正面にはペガサスにまたがった女神の像と大きな噴水が煌々と水を湛えています。
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宝石の森では、
鉱石トルマリンの研究がなされ、トルマリンが電気を発生し血液の循環を良くすると言う効果をもたらすことを実証し数々の健康機器を製造している。トルマリンは、遠赤外線とマイナスイオンを発生し体温を上昇させるという。トルマリンを使ったシートを製品化している。家内に、一枚このシートを」購入しました。おまけもつけてくれ、宅配・税込みで、10800円でした。
トルマリンtourmaline)は、ケイ酸塩鉱物のグループ名。結晶を熱すると電気を帯びるため、電気石(でんきせき)と呼ばれている。宝石のひとつで、10月の誕生石である。石言葉は「希望」。世界的に見ると多産な鉱物であるが、稀にある含銅リシア電気石に関しては、宝石としてのいわゆる「パライバ・トルマリン」として希産宝石として珍重される。

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恵林寺
 山梨県甲州市塩山小屋敷にある寺院。山号は乾徳山(けんとくさん)。臨済宗妙心寺派に属する寺院である。甲斐武田氏の菩提寺として知られる。
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鎌倉時代元徳年1330年)に、甲斐国の守護職であった二階堂貞藤(道蘊)が笛吹川上流の所領牧荘を寄進し、五山派の夢窓疎石を招き開山。二階堂氏邸を禅院としたのが始まりとされる。もとは円覚寺派に属し、関東準十刹の寺格を有していた。

恵林寺は甲斐における臨済宗の中心となり、絶海中津や龍湫周沢らが住持となる。応仁の乱で荒廃するが、甲斐武田氏の菩提寺に定められて復興し、京都から高僧が招かれる。

天文10年(1541年)には武田晴信(信玄)が臨済宗妙心寺派の明叔慶浚・鳳栖玄梁を招いて再興し、永禄7年(1564年)には武田氏により寺領が寄進され、永禄7年(1564年)に美濃崇福寺から快川紹喜を招く。天正4年(1576年)4月には、快川を大導師に、嫡男の勝頼を喪主として信玄の葬儀が行われた(「天正玄公仏事法語」)。 

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右下は、武田信玄の墓所 隣には、江戸幕府の将軍徳川綱吉時代に側用人であり、晩年に甲府城の城主となった柳沢吉保の墓所にもなっている。晴信、39歳で出家し信玄(僧侶)と号し、1573年4月12日、53歳にて病死。恵林寺では4月12日に信玄忌として毎年供養が行われる。信玄の墓の後ろには武田家臣の供養塔が約70基並んでいる。

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恵林寺庭園(国指定名勝) 
本道の裏側には夢窓国師築庭の池泉回遊式帝位円が拡がっている。
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四脚門(国重要文化財) 参道を上がると四脚門が(赤門)が現れる。この赤門は織田信長により全山焼かれた後、徳川家康によって再建された当時のものである。
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河口湖創造の森(富士桜) 
フジザクラといえば、富士山を代表する桜。4月の終わり頃になると小さくて白っぽい花が可憐に咲き、長い冬の終わりを知らせます。河口湖にある創造の森はフジザクラの名所。富士山をバックに淡いフジザクラの花が咲き、カメラマンや家族連れ、カップル、様々な人たちが笑顔で歩いていました。毎年、ゴールデンウイークの頃には、富士桜ミツバツツジ祭が開催されています。わた菓子やポップコーン、甘酒などのサービス、植木市、木工クラフト教室などもありました。見頃:4月下旬〜5月上旬   林大家一起照相。他们总是五月來日本見姐姐。
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公園の入り口付近では、地元商品を販売する露天が軒先を並べていた。

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偶然出会った早稲田大生のグループ。娘の後輩だということで親しみが沸き、カメラに収めました。
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これで、おしまい、

富士山五合目 富士スバルライン

気軽に、富士山の気分を楽しめます。河口湖駅から一気に富士山五合目までバス走り。

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山頂は、雲がかかり、見えませんでした。

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小御嶽神社 富士山吉田口五合目(小御岳)に鎮座。磐長姫命(木花咲耶姫の姉)を祭っている。小御岳は現在の富士山が形成される以前の山であり、山岳信仰の霊地として今より千年以前の承平七年に創建されたものと伝わる。また、五合目にあるお宮は、以前は鳴沢村にある魔王天神社にあった古太郎坊(こたろうぼう)という小祠(しょうし)を、遷座し小御岳権現と称したものが元になっている。

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富士山の信仰
富士山崇拝は種々の形式で存続されてきた。江戸時代の初期に「富士導者」登山の団体が結成され、長谷川角行尊師は人穴にて修行し富士に登山すること128回難行苦行をなし、106歳まで長命した。
6世身緑尊師となり、油の行商をしながら富士教の道を布教し登山を怠ることなく、江戸に808講とまでいわれるほどに広がり関東全域に信者が増え富士講隆盛時代を築き上げた。明治、大正時代も引継ぐ信仰の山として現在は気楽に富士スバルラインで五合目まで車上で数百万人を数え当社に参詣祈念し、富士山大社の大神の恵みを授かり、夏山には五十余万人の人々が山頂を極め、山岳信仰として六根清浄を唱え神の御心に接することこそ富士山信仰としての貴い道であり。すなわち日本人の心である。

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